2014年4月10日 (木)

雑記。

ここじゃなくてもいいけど、たまにはこちらに何か書いてみる。

どこまであるきつづければよかったのか

しんだあとがうまれるまえと

まあるくわになってつながっている

もうだまっていてもいい

いくらはなしても

どんなにうたっても

さびしさはきえなかったけれど

よろこびもまたきえさりはしなかった

谷川俊太郎さんの詩をふと思い出したので書いてみた。



 私は今もあなたを慕っています。隣にいてくれるだけでただ嬉しく、幸せに思える方に「あなた」と呼びかけることも何だか恐れ多いような、恥ずかしいようなそんな気持ちでもあります。あなたにもらった手紙を読み返して、私は過剰にあなたに依存しようとしていたのだと自分を責めました。どうして私は私でいられなかったのでしょうか。これから私は、あなたが私と出会う前にいた場所に行きます。そうすれば少しはあなたの見てきたもの、生きてきた時間がわかるかもしれないと即座に思ってしまった私は笑える人間でしょうか。あなたと私は違います。私はあなたには不釣り合いかもしれません。あなたは私のことなど忘れているかもしれません。それでも、もう、以前のように人目を気にせず何もわきまえずなりふり構わず振る舞うような真似はしないから、近い未来にあなたと言葉を交わしたいと願うのは何とも馬鹿げたことなのでしょうか。

2013年10月13日 (日)

長らく携帯メールからの投稿がなかったのでこれで送信できているかが不安。後で書き足します。

昨日、数年前から参加していて現在は世話人を引き受けている会の定例会があった。正直、最初のうちはその会に参加するのが嫌な気持ちの方が強かった。参加し始めた頃は、どこでもいいから自分を認めてくれる場所を探していて、ともかく自分が話したくて仕方がなかった。それなのに実際は自己主張の塊のような人が多く、むしろ私が話を聞く立場になることが多く、うんざりしたからかもしれない。嫌なことは嫌だと意思表示すればよかったことを我慢して、自分から潰れていったこともあった。
今は、当時よりも他人を許し、自分も他人もお互いいても良いと思うようになったから、多少のことには目をつぶれるようになった。それでも、たまに苛つくようなこともある。それでもなぜその会に参加をしているのかと言われたら、はっきりとした理由は言えない。私が長期戦に強く、時間をかけてひとつのところで信頼関係やスキルを積み重ねていくタイプの人間だからかもしれない。長い目で物事を見たり、行った場所の価値観や雰囲気を見て合わせられる、適応力のようなものがあるのかもしれない。これらは漠然とした要素だけど、一番ピンとくるのは、参加者ひとりひとりが自分以外の話を聞いて、違う立場や境遇の相手を認めることはできなくとも許すぐらいは出来るようになったことが一番大きな要因だと私は考えている。

2013年4月 8日 (月)

現実逃避なのか関心の多様化なのか。

 最近まとまったものを書く機会が少なくなり、どういうわけなのか誰かと約束をしたり決められた時間にどこかに行くのが困難になっている。完全にできないわけではないが、余程気乗りしない限り、どこに行くのもためらわれるような。数年来関わっている会の世話人を引き受け、今までやり取りすることもなかった人とも交流できるようになったり、新聞の仕事も二年目に入り少なくとも去年よりは慣れるようにしたいと思う気持ちがあるので気分が乗らないとか物事や生きることに前向きになれないわけではない。

 今日の午後は月に一回程度会う人たちと突発的にだけど話す機会があった。その中で久しぶりに強く思うことというか、自分から発信しないといけないと思うことがあり、こちらに少しまとめて書いてみたくなったので、更新してみることに。
 今の若者世代―おそらくは20代から30代ぐらいの大人世代を指しているのだろう―は、社会に対する危機感が薄く、現在の政治状況や憲法をめぐる問題に発言しないために政治実権を握っている人からすれば好き勝手に出来て思う壺ではないか。若者は自分たちの問題であるという意識を持ってもう少し政治の問題を考え発信するべきではないか。上の世代のこのような呼びかけに対し、若者がそれらの行動をどうして「しない」のかということを考えた。
 そもそも政治不信で、最初から政治家なんて「どうせだめ」と思っている面もあるだろう。物心がついたころから「景気が悪い」と散々聞かされた世代は、政治が自分たちの生活をマシにしてくれるという実感を持つことができない。「政治家は自分たちで育てるものだ」と団塊世代やそれより上の人間が説得しても、聞く耳を持たないだろう。憲法のことも憲法のことも学校では十分に教育されていないというのも事実であるしその辺りにも要因は見出すことができる。そのような背景も相まって、日本では議員を選ぶことを通じてあくまでもひとりひとりが政治に参加している、いわゆる間接的民主主義であるということを実感として理解していない人は多い。
 時間の問題もあるだろう。30代で子どもがいる世帯ならば間違いなく共働き。そんな中で政治のことを考えたり、より差し迫った課題として選挙でどの政党や候補を選ぶかなど吟味する時間は到底取れないだろう。そうでなくても「寿退社」という言葉が半ば死語となった現在では、女性でも30代になっても働き続けるケースが多い。そもそも働いているか否かを問わずに自分の心身の管理で精一杯かもしれない。

 ここまで書いたことはどちらかというとすぐに思いつく一般的解答かもしれない。しかし、暫く考えるとより根本的な問題に気が付いた。そもそも、「政治」「選挙」「憲法」「脱原発」などのテーマは、現在でも「みんな」で考えられる大きな話題なのだろうか。政治(特に国政)や選挙での投票行動だけが、社会を変え、よりよい世の中を作ることができる行動なのだろうか。あらゆる社会・文化的活動の基盤が政治的な問題なのだろうか。
 学部時代に一緒にアルバイトをしていた知人が会社を三年で辞め、現在は里山保護や荒れた竹林の再生事業に取り組んでいる。曰く「半農半音」を目指しているそうだ。学部時代の先輩で、もともとは神学を勉強していたが、留学をきっかけに中東やアフリカの料理作りに目覚め、フードコーディネーターになった人もいる。中東の政治状況や文化を伝え、大使館とも連携し難民などへの理解をも深めようとし、彼女が住むシェアハウスでもイスラエル料理のパーティーなどを開いている。環境系でならば「アースデイ」などのイベント運営や週末を中心としたゴミ拾いの活動グループを運営したり参加する人もいる。国際関係ならば青年海外協力隊に参加した人が周囲には複数いるし、JICAなどの団体やNGO団体、国際的な人権団体でスタッフとして関わる若者もいる。例示した二つの問題については、むしろ若者世代の方が広い目や世界を視野に入れた問題意識を常態的に持っているので、気軽にアクションを起こし、世界と人を良い方向に導いているのではないか。
 以下、キーワードの列挙になるが、路上生活者、精神疾患、不登校、ひきこもり、非正規雇用などの労働問題、発達障害、セクシャルマイノリティなどの分類し続けたらきりがないほどの社会問題や人権の問題に対して、イベントや電話相談、オルタナティブな学びの場所や特定のイシューについて関心のある人が話し合う場所の提供、いわゆるロビー活動などの議員への交渉、具体的な政策提言などの様々なアプローチで若者たちが関わり、生きるために動き続けていることも知っている。その中の選択肢として、脱原発へ向けたアクション、政党を中心とした狭義の政治問題、憲法を守ろうとする具体的な行動、一票の格差をなくすための運動が確かに存在している。30代の知人で小選挙区制に反対する運動を長く続けている人もいるし、チェルノブイリの事故の頃から原発の危険性を訴えている比較的若い世代の仲間もいる。このように、そもそもの関心が分散しているということが、見落としがちだが狭義の政治に対するアクションを起こす人が少ない原因ともなっているのではないか。
 文芸や舞台芸術、美術関係や学術などの文化的な活動に従事する人もいる。すべての分野を熟知しているわけではないが、憲法や政党政治には直接言及せずとも、戦争に力づくで反対し、自分の腕で獲得した富を立場の弱い人に惜しみなく寄付する人も知っている。文学、思想、歴史などの分野では広い意味での政治的なイデオロギーを相対化するための試みもなされており、ここ十年で定着した感もある。

 こうした状況下で、たとえ狭義の政治的キーワードに多数の人が強い関心を寄せずとも、社会を変えよう、生きたいように生きられる世の中を作ろうという、全く同じ思考の人はいないけどそれぞれの形での思い、願い、それを実現するためのアクションを起こしている点ではみな共通しているのではないか。昨年のオリンピックでも10年前では考えられないような多彩な種目で日本人選手は結果を残していた。かつてのようにひとりのアイドルや一つの文化現象や一家に一台あるテレビに皆が夢中にはならないが、それぞれがぞれぞれの方向で消費をし、イベントに参加し、ウェブでブラウジングをして自分の嗜好をつなぎ合わせていく。そうした文化的な側面をも考慮すべきではないか。アルチュセールの「重層的決定」概念がしっくりくるのかもしれないが、一元的な決定論はもはやデフォルトではなく、社会の作り方や基本概念という根本的なところから再考すべきだという結論に達した。最初の問題提起とはかなりずれたような気もするけど、このようなことを考えた。

2013年3月10日 (日)

署名の提出報告が入りました。

 二つ前の記事で募った署名に関して、集計、提出を済ませたようなので、遅くなってしまいましたが報告します。
 署名総数は3261通で、2月27日に提出したそうです。4月以降もそのまま業務継続するのは難しいということですが、6月の補正予算で復活できるようにしたいとのことでした。

 署名していただいた方、本当にありがとうございました。

2013年3月 3日 (日)

鯨エマの本出しっ! の収録。

先月末に撮影をして、あっという間に番組の形でweb上に公開されたので、こちらでも宣伝をば。女優でシニア劇団「かんじゅく座」の主宰など、演劇を中心にマルチに活躍している鯨エマさんが、「絆チャンネル」で毎月二回配信している「鯨エマの本出しっ! 」という番組に出演しました。私のしゃべりはグダグダですが、鯨さんの話しやすい雰囲気とスタッフの方の編集のおかげでいい感じの番組になっています。最新回の2月28日分に出ている性別年齢不詳の奴が私です。ご興味のある方は是非ご覧ください。取り急ぎご報告でした。

http://pr.kizzna.com/ch_entertain/kujira

2013年2月 6日 (水)

署名のお願い。

自分のことで手いっぱいで、あわただしさだけが漂う今日この頃。

諸々の団体に関われずご迷惑をおかけしています。

できることだけはやろうと思い、署名の呼びかけをここでもしてみます。

賛同できる方はこのファイルを解凍し、用紙をプリントアウトして使ってください。

用紙の送付先や期限などの詳細は、個人情報などもあるので明記しません。

用紙の下部の記述をご参照ください。

*****************************
(2月24日付記)
署名の送付期限が過ぎたため、署名用紙のファイルは削除しました。
集まった署名はこれから提出するそうなので、最終的な署名総数や
議会での答弁の結果などは、報告が入り次第こちらにも転載します。
ご協力ありがとうございました。

2012年11月 4日 (日)

日記。

 昨日は、ずっと関わりたかったけど日程の都合で参加できていなかった会に参加。上北沢は静かな住宅地だった。集まりの会場はレトロな感じを残しつつも快適な場所。時間制限もなく、代表者の伝手で一日貸してくれたとのこと。そういう良心的なつながりを大切にしたいと思った。

 集まりの内容で気づいたことをいくつか。何かアクションを起こすときに、目標を明確にすることが大事。自分たちがどこに向かっているのか、外の人間にも見えるレベルにピントを絞ることが必要。また、それを明文化すべき。対照的に、実際に行動するときには、様々な立場の方を巻き込むことが必要。組織内の参加メンバーも、できるだけ様々な立場の方を受け入れ、狭い意味での当事者に限定しない方がいい。そもそも、当事者というのが非常に曖昧な定義。なので、国をはじめとした行政を敵に回してはいけない。むしろうまく使って法案などに自分たちの考えを反映してもらったり、議員に答弁をさせるように、何度も声を出し続けること。どんな社会運動にも通じる。地方議員の存在も重要だ。同じ属性の当事者だけの活動では「自分たちのことしか考えていない」と非当事者から判断され、一層視線が冷たくなることがある。そのため、議員だけでなく関心を共にしている他分野の専門家・有識者の人たちに力を借りることが有益だ。セクマイの自殺にしても、セクマイの当事者や関係者、研究者だけでなく、自殺について考える団体やチャイルドラインなどとの連携をすることで、今まで相談しづらかった人にも窓口を広げ、救うことが可能になる。自分と100%同じ考えの人間はまず存在しない。だから、各イシューごとに関心を共にする人がその都度手を組んで、その時々の課題解決をしていくことが、社会全体を住みやすいものにする近道である。

 あまりまとめにはなっていないが、ホワイトリボンの活動に今後も関わると同時に、社会運動の在り方のモデルとして、この事例と教訓を様々なところに伝えたいと思う。

 個人的な感想としては、今の30代ぐらいの人たちまでは学歴も年齢差も気にせずに自由闊達に意見を交換して、競争意識を持たずにお互いの話を最後まで集中して聴くことができる人が相当数いるということがわかってすごく希望が持てた。いわゆる「目立ちたがり」「認められたがり」も昨日は見なかった。職場でも問題利用者は大体「おじさん・おばさん」と言われる世代で、若い人は手間を嫌う部分が若干あるにしろ、人の話をきちんと理解し、その枠内で自分の要望を伝えるということができると話していた。さらに、縛り付けるだけ、中の人間同士で攻撃しあうだけの人間関係に対する反省を生かし、気に掛けるし、お互いに話が合う部分では協力するけど、過剰な干渉をしないという人間関係を自分たちで築いている。そういうところでは各個人が力を発揮しやすいし、よりよい未来を自分たちで作っていくことが可能になると、希望を忘れずに生きることができる。

2012年10月26日 (金)

晴れの日。

 昨今慌ただしく、突如として社交的な人間になったかのような感覚すら覚える。話したかった人と話せる機会を得たり、教えを請いたい人から知識を分け与えてもらうことはこの上なく嬉しい。何より、そのような場に自分が呼ばれることが、驚きであるとともに嬉しくも思う。
 扉を叩き続けようと思えるのは、こういうことがあるからだろう。愛されたことのない人間が人を愛せないのと同じように、声を出そうが行動を起こそうがもスルーされてばかりでは、人に優しくできない。もし、扉を開けてもらえなかったとしても、開いた扉から罵声が聞こえてきても、それでも別の扉を叩こうと思えるのは、こうした優しくされた記憶があるからに違いない。分かり合おうと歩み寄れば、いつかわかってもらえる日が来ることもある。だからこそ、どんなにひどい言葉をかけられても対話を続けようと思える。目の前にいる相手の怒りの裏には、辛い経験があるのかもしれない。私がそれをじっくり聴けば、相手は救われるのかもしれない。誰からも好かれることは不可能でも、お互いに大切に思える人たちとはつながっていたいし、むしろ合わない人間に無理に合わせる必要もないと思うようになった。

2012年9月23日 (日)

胡蝶の夢。

前回の記事も私の怒りが収まったところなのできちんと論点や会の内容を追記しようと思うけど、何だか昨夜寝つけず思うところがあったので書いてみることにした。

 こんな人でもきちんと生きられる。それだけが周りの人に伝わればもう十分な気がする。それにしても昨夜は少し飲み過ぎたのかもしれない。いつだって私は「いま・ここ」にはいない人間だから、昨日もどこか違うところを見て、昔のことやこれからのことを回想していた。私はただ自分とは違う誰かと隣にいたいだけで、それだけで最後までいたのかもしれない。べた付く口当たりの液体を氷だけ入れて流し込んでいたのは、周囲の中で何かが違う自分を紛らわせるためかもしれない。いや、同じ集まりに来る人全員が同じ思考であるはずはない。でも、何か浮遊しているような、座席の位置的にはちょうど中心にいたにもかかわらず、私は周囲の声と飲み食いする様子を川の流れでも見るかのように離れた場所から見ているような感覚でその場をやり過ごしていたのかもしれない。離れたくないけど、その場にいるのはいたたまれないような、いつだって私はここにはいられない人間なんだろう。

 どんなものに対しても付かず離れずで、つかみどころがないと言われてしまう。昨日の会合ももう今年度限りで終わるかもしれない。10代の頃は、できることをできるだけやっておこうと思い、色々なところにともかく足を運び、煮詰まってしまったと思ったら距離を取るようにはしていた。ある程度の年齢になれば安住できる場所ができると思っていた。だが、周囲の環境というのか時代の流れも、変化が速く、必ずしも同じ場所にずっといることが承認されないような空気を感じるようになっていた。だから結局高校を出た後も10年近く同じように複数の居場所を持ち、その時々によって距離感も変わる。これからもそうやって何かと出会って付き合うような気がする。

 大きなことをしようとはこれぽっちも思わなくて、できることをできる範囲でやろうとしか考えていない。ずっとそう。いまここにあると確証しているものたちは何故、こうして存在しているのかが気になって仕方ない。そんなのどうでもいいだろう。薄暗がりで本なんか読んでるやつは嫌いだ。そういわれても構わないから、私は生きていることを記憶にとどめたくて、伝えたくて、誰かと出会いたいからものを書き、どこかに出向き、話をするのだろう。

 薄ぼんやりした思考でこんなことを大体考えていたら夜が明けた。何が夢か現かわからない状態で、頭の片隅に「胡蝶の夢」という単語が出てきたのは、昨今の社会状況を無視して中国哲学や漢文を勉強したいと思うからかもしれない。でも、昨日の夜は頭の中ではガーシュウィンが流れていたからきっと国とかそんなものは関係なしに印象に残るものは残るんだと思う。

2012年9月14日 (金)

集まりの対象とか内容とか。

あまりのことに衝撃を受けたため、携帯から暫定的に記録しておくけど、後で落ち着いたら書き直します。
専門家だけでなく一般の人も対象にしている集まりだったらもう少し皆が入りやすいように、本当に一からの説明と現代的な課題を題材に話を進めてほしかった。全国紙の広告をみて、わざわざ遠方から朝早くにも関わらず集まった方がたくさんいる。そういう人たちの好奇心や向学心に答えるような集まりを作るべきだ。
質問者も質問も内輪で事前に決めてあって、はっきりいって狭いアカデミックサークルでの研究会や学会とほとんど変わらない。そういった集まりを望むならば、外にたいしては宣伝せずに、重箱の隅をつつくような議論とも言えないようなお喋りをしたい人だけでしてほしい。

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