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2012年9月23日 (日)

胡蝶の夢。

前回の記事も私の怒りが収まったところなのできちんと論点や会の内容を追記しようと思うけど、何だか昨夜寝つけず思うところがあったので書いてみることにした。

 こんな人でもきちんと生きられる。それだけが周りの人に伝わればもう十分な気がする。それにしても昨夜は少し飲み過ぎたのかもしれない。いつだって私は「いま・ここ」にはいない人間だから、昨日もどこか違うところを見て、昔のことやこれからのことを回想していた。私はただ自分とは違う誰かと隣にいたいだけで、それだけで最後までいたのかもしれない。べた付く口当たりの液体を氷だけ入れて流し込んでいたのは、周囲の中で何かが違う自分を紛らわせるためかもしれない。いや、同じ集まりに来る人全員が同じ思考であるはずはない。でも、何か浮遊しているような、座席の位置的にはちょうど中心にいたにもかかわらず、私は周囲の声と飲み食いする様子を川の流れでも見るかのように離れた場所から見ているような感覚でその場をやり過ごしていたのかもしれない。離れたくないけど、その場にいるのはいたたまれないような、いつだって私はここにはいられない人間なんだろう。

 どんなものに対しても付かず離れずで、つかみどころがないと言われてしまう。昨日の会合ももう今年度限りで終わるかもしれない。10代の頃は、できることをできるだけやっておこうと思い、色々なところにともかく足を運び、煮詰まってしまったと思ったら距離を取るようにはしていた。ある程度の年齢になれば安住できる場所ができると思っていた。だが、周囲の環境というのか時代の流れも、変化が速く、必ずしも同じ場所にずっといることが承認されないような空気を感じるようになっていた。だから結局高校を出た後も10年近く同じように複数の居場所を持ち、その時々によって距離感も変わる。これからもそうやって何かと出会って付き合うような気がする。

 大きなことをしようとはこれぽっちも思わなくて、できることをできる範囲でやろうとしか考えていない。ずっとそう。いまここにあると確証しているものたちは何故、こうして存在しているのかが気になって仕方ない。そんなのどうでもいいだろう。薄暗がりで本なんか読んでるやつは嫌いだ。そういわれても構わないから、私は生きていることを記憶にとどめたくて、伝えたくて、誰かと出会いたいからものを書き、どこかに出向き、話をするのだろう。

 薄ぼんやりした思考でこんなことを大体考えていたら夜が明けた。何が夢か現かわからない状態で、頭の片隅に「胡蝶の夢」という単語が出てきたのは、昨今の社会状況を無視して中国哲学や漢文を勉強したいと思うからかもしれない。でも、昨日の夜は頭の中ではガーシュウィンが流れていたからきっと国とかそんなものは関係なしに印象に残るものは残るんだと思う。

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