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2013年4月 8日 (月)

現実逃避なのか関心の多様化なのか。

 最近まとまったものを書く機会が少なくなり、どういうわけなのか誰かと約束をしたり決められた時間にどこかに行くのが困難になっている。完全にできないわけではないが、余程気乗りしない限り、どこに行くのもためらわれるような。数年来関わっている会の世話人を引き受け、今までやり取りすることもなかった人とも交流できるようになったり、新聞の仕事も二年目に入り少なくとも去年よりは慣れるようにしたいと思う気持ちがあるので気分が乗らないとか物事や生きることに前向きになれないわけではない。

 今日の午後は月に一回程度会う人たちと突発的にだけど話す機会があった。その中で久しぶりに強く思うことというか、自分から発信しないといけないと思うことがあり、こちらに少しまとめて書いてみたくなったので、更新してみることに。
 今の若者世代―おそらくは20代から30代ぐらいの大人世代を指しているのだろう―は、社会に対する危機感が薄く、現在の政治状況や憲法をめぐる問題に発言しないために政治実権を握っている人からすれば好き勝手に出来て思う壺ではないか。若者は自分たちの問題であるという意識を持ってもう少し政治の問題を考え発信するべきではないか。上の世代のこのような呼びかけに対し、若者がそれらの行動をどうして「しない」のかということを考えた。
 そもそも政治不信で、最初から政治家なんて「どうせだめ」と思っている面もあるだろう。物心がついたころから「景気が悪い」と散々聞かされた世代は、政治が自分たちの生活をマシにしてくれるという実感を持つことができない。「政治家は自分たちで育てるものだ」と団塊世代やそれより上の人間が説得しても、聞く耳を持たないだろう。憲法のことも憲法のことも学校では十分に教育されていないというのも事実であるしその辺りにも要因は見出すことができる。そのような背景も相まって、日本では議員を選ぶことを通じてあくまでもひとりひとりが政治に参加している、いわゆる間接的民主主義であるということを実感として理解していない人は多い。
 時間の問題もあるだろう。30代で子どもがいる世帯ならば間違いなく共働き。そんな中で政治のことを考えたり、より差し迫った課題として選挙でどの政党や候補を選ぶかなど吟味する時間は到底取れないだろう。そうでなくても「寿退社」という言葉が半ば死語となった現在では、女性でも30代になっても働き続けるケースが多い。そもそも働いているか否かを問わずに自分の心身の管理で精一杯かもしれない。

 ここまで書いたことはどちらかというとすぐに思いつく一般的解答かもしれない。しかし、暫く考えるとより根本的な問題に気が付いた。そもそも、「政治」「選挙」「憲法」「脱原発」などのテーマは、現在でも「みんな」で考えられる大きな話題なのだろうか。政治(特に国政)や選挙での投票行動だけが、社会を変え、よりよい世の中を作ることができる行動なのだろうか。あらゆる社会・文化的活動の基盤が政治的な問題なのだろうか。
 学部時代に一緒にアルバイトをしていた知人が会社を三年で辞め、現在は里山保護や荒れた竹林の再生事業に取り組んでいる。曰く「半農半音」を目指しているそうだ。学部時代の先輩で、もともとは神学を勉強していたが、留学をきっかけに中東やアフリカの料理作りに目覚め、フードコーディネーターになった人もいる。中東の政治状況や文化を伝え、大使館とも連携し難民などへの理解をも深めようとし、彼女が住むシェアハウスでもイスラエル料理のパーティーなどを開いている。環境系でならば「アースデイ」などのイベント運営や週末を中心としたゴミ拾いの活動グループを運営したり参加する人もいる。国際関係ならば青年海外協力隊に参加した人が周囲には複数いるし、JICAなどの団体やNGO団体、国際的な人権団体でスタッフとして関わる若者もいる。例示した二つの問題については、むしろ若者世代の方が広い目や世界を視野に入れた問題意識を常態的に持っているので、気軽にアクションを起こし、世界と人を良い方向に導いているのではないか。
 以下、キーワードの列挙になるが、路上生活者、精神疾患、不登校、ひきこもり、非正規雇用などの労働問題、発達障害、セクシャルマイノリティなどの分類し続けたらきりがないほどの社会問題や人権の問題に対して、イベントや電話相談、オルタナティブな学びの場所や特定のイシューについて関心のある人が話し合う場所の提供、いわゆるロビー活動などの議員への交渉、具体的な政策提言などの様々なアプローチで若者たちが関わり、生きるために動き続けていることも知っている。その中の選択肢として、脱原発へ向けたアクション、政党を中心とした狭義の政治問題、憲法を守ろうとする具体的な行動、一票の格差をなくすための運動が確かに存在している。30代の知人で小選挙区制に反対する運動を長く続けている人もいるし、チェルノブイリの事故の頃から原発の危険性を訴えている比較的若い世代の仲間もいる。このように、そもそもの関心が分散しているということが、見落としがちだが狭義の政治に対するアクションを起こす人が少ない原因ともなっているのではないか。
 文芸や舞台芸術、美術関係や学術などの文化的な活動に従事する人もいる。すべての分野を熟知しているわけではないが、憲法や政党政治には直接言及せずとも、戦争に力づくで反対し、自分の腕で獲得した富を立場の弱い人に惜しみなく寄付する人も知っている。文学、思想、歴史などの分野では広い意味での政治的なイデオロギーを相対化するための試みもなされており、ここ十年で定着した感もある。

 こうした状況下で、たとえ狭義の政治的キーワードに多数の人が強い関心を寄せずとも、社会を変えよう、生きたいように生きられる世の中を作ろうという、全く同じ思考の人はいないけどそれぞれの形での思い、願い、それを実現するためのアクションを起こしている点ではみな共通しているのではないか。昨年のオリンピックでも10年前では考えられないような多彩な種目で日本人選手は結果を残していた。かつてのようにひとりのアイドルや一つの文化現象や一家に一台あるテレビに皆が夢中にはならないが、それぞれがぞれぞれの方向で消費をし、イベントに参加し、ウェブでブラウジングをして自分の嗜好をつなぎ合わせていく。そうした文化的な側面をも考慮すべきではないか。アルチュセールの「重層的決定」概念がしっくりくるのかもしれないが、一元的な決定論はもはやデフォルトではなく、社会の作り方や基本概念という根本的なところから再考すべきだという結論に達した。最初の問題提起とはかなりずれたような気もするけど、このようなことを考えた。

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